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『大衆化する大学院―― 一個別事例にみる研究指導と単位認定』(20069月、未來社刊)

あとがき(より抜粋)

 

折原 浩

 

 

 

 ……[前略]……


 顧みると、筆者が、自分の所属する東京大学、しかも出身学部の文学部を、筆者には理不尽/無責任と思われる措置について公然と批判するのは、
1968-69年の「第一次東大闘争」、1977年の「文学部火災事件」につづいて、これで三度目である。過去二度の批判の論拠は、本書の第三章注4に挙げた文献に、公表され、記録されている。そこでは、批判の対象が、学問内容に直接の関係はない管理上の理不尽/無責任にかぎられていたが、今回は、批判の射程が、学位認定という中枢機能と(そこに顕れた)専門的研究の質と水準におよんでいる。

 筆者がこれらの批判とその公表をとおして意図したことのひとつは、日本の「学界−ジャーナリズム複合体制」に根を下ろし、第二次世界大戦後にも一向に変わっていない、ある「慣習律」にたいして、少なくとも挑戦を止めないことであった。すなわち、「学問的訓練をとおして錬磨される批判的理性の意義を、抽象的にはどんなに説いても、あるいは、抽象的にはどれほど過激な批判的言辞を弄しても、問題が自分の所属組織や出身母体や同業関係にかかわり、具体的な身辺の利害におよんでくると、とたんに批判を手控えて『口を拭う』、『身辺と余所』『内と外』の二重規準に囚われた『個別主義particularism』の慣習律」である。

 筆者は、いまから約四○年まえ、駆け出しの一教員として1968-69年「第一次大学闘争」に直面した。この事件は、当の慣習律を根本から問い返し、「『身辺と余所』『内と外』という二重規準の制約を超える理性的批判の具体的普遍化」に向けて、ようやく突破口を切り開くかに見えた。

  その渦中では、たとえばつぎのような議論が交わされた。まず、日本社会一般の「無責任の体系」を批判する「知識人」の言説は、読者のひとりひとりが、それぞれの所属組織ないしは現場で直面する具体的な無責任措置のひとこまひとこまに、公然と向き直って闘うことを想定/期待し、そうした個別の闘いを導いて日本社会全体の変革につなげようとする「呼びかけ」と解されなければならない。「日本社会全体の変革」「責任体系の確立」といっても、実態としては、個々の組織や現場における、そうした具体的な闘いの根気よい積み重ね以外にはありえない。ところで、ある「知識人」の著者が、一方では、批判言説をジャーナリズムに発表して読者に「現場の闘い」を呼びかけながら、他方、生身の一大学教員としては、自分の所属組織の具体的な無責任措置(たとえば、事実誤認のうえに「疑わしきを罰し」、教壇では説かれる「近代法/近代的人権保障の常識」を忘れる、「第一次東大闘争」で問われた、東大当局の措置)が明るみに出てきて、まさに読者と同じ立場で当の具体的無責任と闘うべき正念場に立たされたとき、身を翻して批判を手控え、事実関係の究明も怠り、(さらに困ったことに)そうしたスタンスの矛盾を衝く問題提起には一種「苛立った」拒否反応しか返せないというのは、いったいどうしたことか。「知識人」のそうした実態が闘争場裡で一瞬あらわになったとき、その「呼びかけ」を真に受けて自分の現場で闘ってきた読者ほど、それだけ痛く失望し、それまでの敬意が否定的批判に反転したのも、ゆえなしとしない。

 しかし、そこから生じた「知識人」言説にたいする批判は、外からの闘争圧殺と内的な衰退につれ、状況の弾みも手伝って、いきおい一面的に尖鋭化した。「自分では闘う気のない『言説のための言説』」、「『余所ごと』にかけては鋭利で華々しくとも、所詮は『慣習律』の『安全地帯』に身を置いた『綺麗ごと』」、「読者を二階に上げて梯子を外す無責任なアジテーション」、「初めから『負ける』つもりの『負け犬の遠吠え』」……と、告発は止まるところを知らなかった。

 こうした他者糾弾の激化と、それと表裏の関係にある自己絶対化とが、状況の重みを共有しない後続世代に、多分に同位対立の擁護論を誘発し、最奥の争点を曖昧にし、議論を「第一次大学闘争」以前の水準に戻してしまったことはいなめない。じつはそこで、著者ないし「知識人」一般の実存的限界を見きわめて「深追い」は避け、むしろ「無責任の体系」を批判し、その克服を目指す問題提起そのものは評価し、引き継いで、その闘いを(こんどは自分たちが、著者の限界を超えても)具体的に普遍化していくにはどうすればよいか、というふうに前向きに設定しなおす必要があったのではないか。そのうえで、各人の現場で二重規準を超える批判的理性の軌道転轍を一歩一歩進めながら、相互に交流/連帯し、「第一次大学闘争」の切り開いた地平を確実に定着させ、「当事者性を忘れたふやけた議論」が蒸し返される余地もないほどに、軌道を固め、実績を積むことが、肝要だったのではあるまいか。

 問題は、「知識人」批判の当事者が、その後「知識人」たとえば研究者となってどう生きてきたか、にあろう。他者に向けた批判を自分自身にも向け換え、「『身辺と余所』『内と外』の二重規準を超える理性的批判の具体的普遍化」に向けて、各人の現場でそれぞれ個別の問題と批判的に対決し、牢固たる慣習律と具体的に闘ってきたかどうか。かえって、「世界歴史」や「社会一般」の抽象論から出発して、せいぜい個別問題を演繹するだけの(キルケゴールにいわせれば「腑抜け」の)スタンスと議論に、いつのまにか舞い戻ってはいないか。逆にいって、自分の所属組織ないし現場の個別問題から出発して、その構造的背景を問いつつ、批判の射程を極力拡大し、広く関心と議論を喚起していくような「実存的な歴史・社会科学」のスタンスと方法は、どれほど会得され、鍛えられ、実を結んでいるだろうか。


 ……[後略]……